厳島神社 略歴
主祭神
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
田心姫命 (たごりひめのみこと)
湍津姫命 (たぎつひめのみこと)
 厳島神社の主際神は「宗像三女神」とも呼ばれ海上交通の完全を守る海の女神です。伝説では二羽の神鴉に導かれ現在の社が建つ位置に降り立ったとされています。
厳島神の鎮座と佐伯鞍職

 社伝「伊都岐島社神主佐伯伯景弘解」(下記)によると、推古元年(593年)に、佐伯郡の豪族で後に神主家となって勢力を拡大した佐伯氏の租である佐伯鞍職(さえきくらもと)が宗像三女神の神託によって社殿を造営したのが始まりとされています。12世紀以降推古元年が厳島神社の創建として伝えられるようになりました。

 歴史上のはじめて厳島神社の名前が現れるのは承和7年(840年)成立した勅撰の歴史書「日本後紀」(にほんこうき)の弘仁2年(811年)記述で「安芸国佐伯郡速谷神、伊都岐島神、並預明神列、兼四時幣」とあります。
「伊都岐島社神主佐伯伯景弘解」

 「伊都岐島社神主佐伯景弘解」は、鎮座以来営々と神主、氏子によって維持してきた神殿社屋を、神主景弘が伊勢国多度社、駿河国浅間社など他国の社造営の例を列挙して、今後破壊、転倒したときは社家の申請にしたがって安芸国の重任(ちょうにん)、遙任(ようにん)の功を募ってその修造に当たるように願い出た記録です。解文(げぶみ)とも言います。

仁安3年(1168年)の造営

 この記録に神主景弘自信が作り終えた神殿以下数々の建物が表記してあり、仁安期に造営された社殿数とその規模がわかります。
 大きく本宮と外宮に別れ、本宮分として三七宇、屏垣門、鳥居四基、外宮分として十九宇、鳥居一基が記されています。
 現在の厳島神社を中心に弥山山麓一帯が本宮、対岸の廿日市市地御前神社周辺が外宮にあたり、大野瀬戸を挟んだ両側に合計56棟、鳥居5基を擁する壮大な建物群が仁安期に現出されたことになります。これが現在目にすることの出来る規模の海上社殿形式です。

 このころ平家一門の庇護を受け安芸国一の宮に発展、特に平清盛により厳島神社は平家の守護神として尊崇され豪華な装飾の「平家納経」などが奉納されました。都の文化を積極的に取り入れました。
鎌倉以降

 鎌倉時代、社殿は消失、再建を繰り返しました。仁冶2年(1241年)現在に残る主な社殿が、清盛時代の様式そのままに造営されました。ただし本殿は元亀2年(1571年)戦国大名の毛利元就が再建したものです。江戸時代には海上に能舞台も作られ日本三景のひとつに数えられるようになりました。
宗像三女神

 宗像三女神と呼ばれる市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命は天照大神と須佐之尊が天の安河原で誓約をしたときに天照大神の息から化生した神々です。
 宗像大社の玄界灘と同様厳島神社も九州と畿内を結ぶ海上交通の要所で特に平清盛が音戸の瀬戸を開いてからは行き交う船の数も格段に増えました。平家一門だけでなく後白河法皇をはじめとする皇族や公家、中国地方の大名たちも尊崇しました。
市杵島姫命

 主祭神とされている市杵島姫命は、本地垂迹思想による神仏習合の中で、七福神の一つで仏教の天部の神である弁財天が本地仏とされ、滋賀県竹生島(ちくぶじま)、神奈川県江ノ島の弁財天とともに「日本三大弁財天」として信仰されています。
ユネスコ

 第二次世界大戦後は国家の保護を失いましたが、貴重な建築群や宝物は失われることなく1996年(平成8年)にユネスコの「世界文化遺産」に登録されました。
平清盛(1118-81)

 平家は早くから交通の要所である瀬戸内海の制海権を握っていました。久安2年(1146年29歳)安芸守(あきもり)に命じられた清盛は瀬戸内海地域に確固たる勢力基盤を気付きましたが厳島はその根拠地でした。
 清盛の厳島信仰は安芸守就任後、高野山を修復中夢枕に弘法大師空海らしき老僧から「厳島神社を修造すれば一門の繁栄は間違いない」とお告げをうけそれを信じて行った。その後保元、平治の乱を勝ち抜き仁安2年(1167年)太政大臣となり平家政権を打ち立てました。
雑学1 平康頼(たいらのやすより)の卒塔婆流し

 冶承元年(1177年)、後白河院の近臣たちが京都東山で平家転覆の謀議を行ったが密告者により発覚、平康頼は藤原成経、僧俊寛とともに鬼界ヶ島(現在の硫黄島説が有力)に流されました。
 康頼は都に残してきた老いた母の身が案じてならず、都恋しさの余り卒塔婆を作り自分の名と二首の唄を刻んで「せめて一本なりとも都へ伝えて給へ」と念じつつ海に流しました。
 卒塔婆の数が千本に達したときに望郷の念、神仏の計らいか潮の流れに乗ってはるか厳島神社に流れ着きました。奇しくも康頼にゆかりのある僧が消息を求めて厳島に参拝に訪れていました。通りがかった宮人と話しこんでいるとき、ふと気がつくと満潮の海の中に折からの月に照らされて海草とともに卒塔婆を発見、拾い上げてみると、康頼の名があり、「これは不思議」と都へ持ち帰り洛北にひっそり住む老母と妻子に見せました。
 この話はその後、後白河法皇にも伝わり哀れに思い、卒塔婆は平重森を経て清盛に渡りました。刻まれた歌をみてさすがに清盛も哀れに思ったらしく、冶承2年(1178年)、清盛の娘中宮徳子(建礼門院)が懐妊、皇子の誕生を願って大掛かりな恩赦が行われ康頼と藤原成経は赦免されました。
 帰った康頼は厳島を訪れお礼の石灯籠を奉納したとされています。
雑学2

 平家の繁栄に連れて清盛の厳島信仰はますます盛んになり、一門を引き連れて度々参詣した。内侍(ここでは巫女)は、神への奉仕のほか歌いながら舞い、酒席にはべるあでやかな芸能者でもあった。清盛は「厳島内侍」との間に一児をもうけた。

雑学3 参詣の最多記録?

 平家一門の信仰は並々ならぬものがありましたが、中でも清盛の異母弟の頼盛(よりもり)は常軌を逸していました。都からは船旅で片道7日以上かかるのに、記録に残るだけで20回以上も厳島を訪れています。政務に忙しい人にとってはかなりの長期休暇で大事な幹事としての仕事をさぼり、休暇届も出さず参拝。仁安3年(1168年)にはついに後白河法皇の逆鱗に触れ、父子は5つの重職を召し上げられました。
 やはり上記のようなことで行きたくてたまらなかったのでしょう(笑)。ちなみに清盛は記録上10回参拝しています。